般若(はんにゃ)
『今昔画図続百鬼』より「般若」
般若は経の名にして苦海をわたる慈航とす
しかるにねためる女の鬼となりしを般若面といふ事は、葵の上の謡に、六条のみやす所の怨霊行者の経を読誦するをきゝて、あらおそろしのはんにや声やといへるより転じて、かくは称せしにや
鬼の面と言えば般若面を浮かべる方は多いと思う。
般若は鬼女として今では使われているが、元はサンスクリット語であり、悟りを開き、真理を認識する最高の智慧という意味であった。
それが今日のように鬼女の意味で使われるようになったのは、石燕も画中解説文で書いているが能の「葵上(あおいのうえ」の影響である。
元は源氏物語の逸話で、葵の上という名の源氏の妻を、源氏の愛人である六条御息所が嫉妬から生霊になって邪魔をしようとするが、修験者の経文によって撃退される。その時に六条御息所が、「ああ恐ろしい。まるで鬼のような般若声」と言って逃げて行く。
――その逸話が色々な経緯を経て、鬼女=般若面というイメージが固まっていった。
因みに能では、般若は生成・中成・本成に分類される。中成は葵の上の白般若で、安達ヶ原の鬼婆と、道成寺と並び「三鬼女」とされている。
ただ、よく考えたら葵上さんが鬼女であるというよりは、六条御息所、あるいはその修験者が般若の元になっていることが解ってしまう。こまけぇこたぁいいんだよ、ってことか。