岩魚坊主(いわなぼうず)
岩魚坊主
イワナ、ヤマメといった渓流の、それも奥の方に多くいる魚の類というのは往々にして妖怪視されやすいものである。
それは釣り人達が魚を「女性」に例えて神聖視したことなどに端を発しているのかも知れない。神秘的な雰囲気の渓流で、優雅に泳ぐ魚を「美しい」と感じるのはとても自然なことのような気がする。
渓流釣りは僕の中で憧れであった。
実家を離れる直前、父親に「いつか渓流へ釣りにいこう」と言われ楽しみにしていたのだが未だ叶っていない。
何度も書いたとは思うが、僕は海より山より川が好きである。海より山より、河原の茂みの方が「何か出る」感があるのもまた良い。
岐阜県のある地方には、毒もみ、という山椒の皮や汁を川に流し、その毒にやられて浮いてきた魚を捕る漁法があった。
村の若者達が川で毒もみの最中、昼飯を食べていた。するとそこへつるつる頭の坊さんが現れた。
「もしそこの者。もしやこれから毒もみをしようとしているのでは?」
「は? そうですけど……何か?」
「それは止したほうがいい。あまり良い方法とは思えんのです」
「そういってもねお坊さん。俺らにも生活がある。仕方ないんだ」
「生活があるのは解りますがね、私なんかは生死に――あいや、なんでもないです」
「まぁ……そうですね、わかりました。今日の所は止めておきますよ」
若者達は鬱陶しい坊主を早く帰そうと適当にごまかして返事をしていた。
しかし坊主は一向に帰る気配がない。
そこでなんとなく昼飯で食べ残してあった団子を勧めてみると、坊主は嬉しそうに団子を食った。
それで坊主は満足したらしくようやく帰ったので、若者達は毒もみ漁を再開した。
しばらくして、突如見たことも無い6尺程の大きさの岩魚がプカーっと毒にやられて浮いてきた。
これは凄い! とはしゃいだ若者達だったが、帰って腹を裂いた時、その岩魚の腹からは先ほど坊主に食べさせてあげた団子がそのまま出てきたのだと言う。
怯えた若者達は誰もその岩魚を食べなかったのだとか。
岩魚も考えに考えた挙句、美女ではなく坊主に化け、説得力をもたせたかったのだろうが、ジャパニーズ社交辞令の前では妖怪の説得も効きはしなかったようだ。
よくこういう逸話の構成は巧い具合にできているなぁ、と思うのだが、坊主が説得して失敗しておしまい、ではなく、最後に団子を喰う事でクライマックスに強烈な印象を残すことになる。
「あぁあの時の!」である。
古典的なパターンの一つではあるわけだが、原点回帰というか、シンプルな伏線とその回収は凄く大事でインパクト大であることを学べる。
ただ、伝承というのは同時にキケンも孕んでいて、最後の団子のくだりを抜かして伝えてしまっただけで、ガラリとこの妖怪の印象も変わる。
それこそ「大岩魚を釣る前兆」として、幸運の象徴となっていたかも知れない。
言葉の妙である。