ただ今日も待っているので『月百姿』より「やすらはで寝なましものを 小夜ふけて かたふく迄の月を見しかな」
『月百姿』より「やすらはで寝なましものを 小夜ふけて かたふく迄の月を見しかな」
待つ、というのが嫌いである。
だというのに(または、だからこそ)僕という奴は多くの場合であえて自ら「待つ」事をしてしまう。
待ち合わせがあったとしたら、必ずその十分以上前に待ち合わせ場所に着くように調整し、時間を潰しながら「待つ」。
宅急便があるときは、時間帯指定をしていたとしてもその一時間前ぐらいからその荷物の到着を「待つ」。
言わなくて済んだ筈の自分の愚かな発言の「呪」のせいで、いつになるか解らない(あるいは永遠に戻らない)恋人の戻りを「待つ」。
――そんな「待ちの美学」、「待ちの地獄」は特に平安時代の女性には深刻だった。
現代の夫婦関係と異なり、平安時代はほとんどの夫婦が「通い婚」だった。夫は気が向いた時に妻の元をたまに訪ね、数日、あるいは一夜を過ごし、またいつ戻るか解らぬ帰路へ着く。
夫からしたらなんとも気ままで会いたい時に会いに行く超自由な様式だが、いつ来るのか解らない夫をいつも待ち続ける妻からしたらたまったもんじゃない。
更に、平安時代のこうした通い婚は、ただ好きだ愛だなどの要素だけではなく、夫が妻の元へ来なくなることはイコールで生活の破綻も意味した(夫が妻に飽き、来なくなるということは、夫に食わせてもらうことが主だったこの時代では本当にヤバイことだったのだ)。
「待つ」の重みが違ったのである。
今宵の月岡芳年『月百姿』の一枚は、「やすらはで寝なましものを 小夜ふけて かたふく迄の月を見しかな」。
赤染衛門(あかぞめえもん)という名の平安時代の歌人が詠んだ夫を待ち焦がれる気持ちを詠ったものが画題となっている。
意味は――
「あなたが来ない事がわかっていたなら待ってなんかいないで寝ちゃえばよかった。もう夜も明けて月が沈むのまで見ちゃったじゃないの。ふん!」
というほどの意味である。
赤染衛門のような女性にとって、来るかも知れない、という時間は夜が深まってからだった。
今か今かと耳を澄まし、いないのに覗き見てしまうその気持ち……あぁ切ない!
自分から行動を起こす事が不可能な状況というのがある。逃げでもなんでもなく、本当に待つことしか出来ない状況というのがある。
そんな時の時間の進み方の遅さ、苛立ち、焦り――それはまさに魔物であり、妖怪の仕業だと思う。
人の心が生み出す、ポップでもキュートでもない禍々しい妖怪が、やはり人の心には棲んでいるのだ。