本当に失う物が無い人間の強さと恐怖――あと黒坊主(くろぼうず)
黒坊主
月岡芳年画『郵便報知新聞』第663号
黒坊主は、東京は神田に現れたとされる妖怪である。
ある大工の棟梁の家に、毎晩十二時になると真っ黒くて影のような坊主が現れ、寝ている棟梁の妻の口や耳や鼻などを舐めまわす。
そして物凄く臭いがキツく、病気になってしまうほどだという。
我慢できなくなった棟梁の妻が親戚の家に逃げると、それきり黒坊主は現れなくなったのだという。
想像するだに恐ろしく、また最低な妖怪である。
で、話は変わるが今日僕の勤務先の店に突然真っ黒な肌の、一見して「家を持たぬ者」風な男が入ってきた。
僕は女性客の応対をしていたのだが、その男は勝手に女性客のバッグを手に取り、何やら眺めはじめた。
「この野郎マジで何やってんだおい」
と思った僕はすぐにその男を制止し、女性客から離したのだが、支離滅裂な罵詈雑言を吐き散らしながら僕を怒鳴り続ける。そして臭い。
最後は相棒のバイト師匠が助太刀に来て、男の話を聞き、男はブツブツ言いながら帰って行った。
その時相棒が、「失う物が無いヤツって最強だよな」と言った。
僕はしばらくその言葉を反芻していたのだが、家も持たず、家族もおらず、お金も地位も名誉もまともな服も何もかもを持っていない、本当に失う物が無い人間。
警察に捕まることすら恐れず(むしろそれによって食を得られるからラッキー、とさえ考えられるほどに)、死ぬことへの恐怖も持たない人間。
――それってマジで最強だな、と思った。
そして同時に、そういう人以上に恐いものがあるのか? とも思った。
蔑視するでもなく、尊敬するでもない。
言葉にうまくできないのだけれど……。
そんなリアルの黒坊主。