浮世絵師・歌川国芳(うたがわくによし)
歌川国芳(うたがわくによし)・1798年~1861年
浮世絵師の中でも超有名である国芳。
そんな国芳の生涯をばざっと。
国芳が絵に興味を持ったのが、産まれた家が染物屋であった事と無関係ではないと思う。
幼い頃から絵を貪欲に学んで模写を繰り返し、12歳の時に描いた「鍾馗提剣図」が歌川豊国の目に止まり、15歳の時に歌川派へと入門する。
しかし絵の世界は当然甘いものではなく、国芳が絵で「食える」ようになったのは30歳を過ぎてからだという。
それまでは国直の家に居候し、家事を手伝う傍ら絵を学んだという。
その為国芳を真に一人前としたのは、豊国よりも兄弟子であった国直だったのでは? という説もある。
面白いのが、豊国が「水滸伝」を描いたシリーズにてブレークし、水滸伝ブームが起きるのだが、その直後豊国は死去してしまう。国芳はそこで豊国にあやかって『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』という、水滸伝に出てくる豪傑を描いたシリーズを発表。なんとこれが大ヒットし、華々しくデビューすることになる。
『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』より「史進 九紋龍」
そこからは国芳のターン。
水滸伝にて「武者絵の国芳」と評判になった国芳は、どんどん絵を発表し、人気もどんどんうなぎのぼり。
その背景にあるのが、国芳が常に向上心を持ち、貪欲に様々な事を学ぶのをやめなかったことだと思う。
西洋画にもいち早く注目し、「西洋画こそ真の絵画」とまで言っている。
例えばがしゃどくろのモデルになったとされている「相馬の古内裏」の骸骨。
これは西洋の医学書を見て、かなり精密に人体骨格を描いていると言われている。
また、国芳人気爆発の裏には天保の改革の影響も大きい。
要は幕府が財政をなんとか立て直そうとした大きな改革なのだが、これは春画や役者絵が禁止になるなどの措置もあり、浮世絵師は物凄くピンチになったのだ。
しかしチャキチャキの江戸っ子だった国芳は(自分のことをわっちと呼んでたらしい)、禁止されているのにも関わらず幕府を批判するような風刺画を量産した。もちろん幕府に怒られたり罰金取られたりするのだが、それでも止めなかった国芳に江戸町民は拍手を送り続けた。
後年は弟子を多く抱え(七十人以上だったとか)、その後に続く名浮世絵師を数多く育てた。最近『新形三十六怪撰』を紹介している月岡芳年もその一人。芳年作品には師匠の国芳の絵と同じ題材を扱ったものが多かったりする。
尚、妖怪画もあるにはあるが、ほとんどが武者絵を得意としただけあって人物メインの絵となっている。これはやっぱり芳年も似た感じ。
ーーと、余談だが国芳は大の猫好きであったらしい。自画像や寄せ絵でも頻繁にネコを描いているし、絵を書く時にも懐に猫を入れて描いていたとか。
でもたまにはお巫山戯でこんな絵も……
「荷宝蔵壁のむだ書」
因みに真ん中のヘンテコぬこさんの横にある「大でき」とは、上出来、という程の意味。
大でき大でき!!
国芳妖怪画もきままに紹介していくのでどうかよろしゅう。