金太郎こと坂田金時(さかたのきんとき)
月岡芳年『月百姿』より「金時山の月」
酒呑童子退治で有名な頼光四天王の一人、坂田金時(さかたのきんとき)。
妖怪退治のスペシャリストとしての四天王の存在を知らないとしても、童謡や巷に溢れる関連話などから最も知名度の高いと思われるのがこの「金太郎」である。
ただし、同時に、頼光四天王の中で最も実在したかどうかが怪しい人物でもある。
モデルになったのでは? と言われる人物が「下毛野公時」という人物。
この人物は藤原道長に仕えていた有能な人物で、藤原道長と言えば源頼光と仲が良く、頼光は道長に仕えていたこともある。そのことから考えると、後年「頼光四天王」を創り上げる際にモデルこそいたものの大部分が脚色された「坂田金時」という人物が創られたのではないか、と考えられる。
というか源頼光自体もかなり脚色されているため、そのぐらいの創作は当然あったと思う。何しろ、頼光四天王の武勇伝が広く知られるようになるのは頼光らが実在した時代より遥か後であるわけで。
では、頼光四天王に金太郎がどのように入ることになったかを簡単にまとめておく。
金太郎は、足柄山で熊などの動物相手に相撲をとるようなたくましい男児だった。
親孝行者で、母親をとにかく大事にしていた。
ある日、足柄山を偶然通りかかった頼光らは、熊と相撲をとるたくましい金太郎に惚れ込み、仲間に加わるよう頼み、スカウトした。
――というだけである。
実は古い資料には金太郎はそんなに「すげぇヤツ」という伝説が書かれているわけではない。金太郎が一気に有名になり、沢山描かれるようになるのはやっぱり江戸時代から。恐らくは金太郎が「四天王の一員」としてだけでなく、「縁起良さそうな、元気な子供の象徴として」という点で着目されたせいではないかと思う。
故に江戸時代に多く描かれた金太郎の絵は、どれもたくまし過ぎる怪童として描かれている。
歌川国芳「坂田怪童丸」
同時に、巨大な鯉と金太郎の一緒に描かれた絵も当時のパターンだった。
鯉は立身出世の魚ともされる縁起の良い魚であり、現代でも端午の節句にはこいのぼりを飾ったり、金太郎等を模した人形を飾ったりする。
これもまた男の子が「たくましく育ち、出世する」という意味である。
浮世絵は商業的なモノということは前にも書いたかと思うが、歌川国芳の描いた↑の金太郎の絵なんか、どう見たって御利益がありそうだし、煌びやかだし、買いたくもなる。
とにかく、妖怪退治メンバーなんてことは差し置いて、他の様々なチャームポイントを武器に、現代にまでその名前を残し続けている金太郎は、ある意味頼光四天王の中で一番「世渡り上手」なヤツだったと言えるだろう。