逢魔時(おうまがとき)
逢魔時
『今昔画図続百鬼』より「逢魔時」
黄昏をいふ。百魅の生ずる時なり。
世俗小児を外にいだす事を禁む。
一説に王奔時とかけり。これは王奔前漢の代をうばひしかど、程なく後漢の代となりし故、昼夜のさきひを両漢の間に比してかくいふならん。
逢魔時は、今でいう黄昏時、夕刻のこと。
かつては大禍時とも言った。
電気もないかつての日本では、夜と昼の境界である夕刻は魔が現れ始める時刻だと信じられていた。その為、禍いの始まりである大禍時や、魔と逢う逢魔が時と言った。
また、夕刻は夕陽の影響で誰が誰だか解らなくなる時刻でもあるのは経験あると思う。そのことから、「彼は誰(かはたれ)」、「誰そ彼(たそかれ)」、彼は誰だ? というのが転じて「たそがれ」と呼ぶようになった。
石燕の絵でも、妖怪達が次第に具現化されていく黄昏時の様子が描かれている。
夕陽の沈むあの時刻、なんだか、不思議な、神聖な気持ちに包まれる感覚を僕も感じることがありましたが、昔からそうだったんですね。
現代妖怪譚~黄昏時に君想う~
聞いてほしい。
彼女との全ての思い出を胸にしまったまま、独りで生きていくことになった。
本当は、全ての楽しかった思い出も、全てのくだらなくってなんでもない毎日の記憶も、彼女と、老いてからもずっと共有し続けることができる筈の思い出だった。
今隣にいる誰かが、ずっと隣にいてくれるなんて思わない方がいい。
それは唐突に、何の救いも、何の慈悲もなく訪れる。
三年も付き合った恋人だった。
俺の全てを知っていた。
事故だと聞いて警察に教えられた先は病院ではなく、事故現場だった。
帰宅途中、車のハンドル操作を誤りガードレールへ激突、そのまま車は横転。衝撃で損壊したドアから半身が出てしまい、後続の車が頭部を轢いた。
事故現場の変わり果てた彼女の姿。いつも彼女が舐めていたハッカの飴だけが、唯一変わらぬ形のまま事故現場に散らばっていた。
「耐え難いとは思いますが、〇〇〇さんで間違い無いでしょうか?」
……いえ、違います。
俺の知っている、目の大きい、笑窪の可愛い、あの彼女ではありません。
違います。
人違いです。
絶対に、間違いです。
何かの間違いです。
つい朝方まで、一緒に寝ていた。
寝顔を見ながらほっぺをつねったりしていた。
夢だな、と思った。
何日間も、夢が覚めることを願って眠り、「夢であればいいと願う現実」で目を覚ました。
ずっと避けていたあの文字を、ついに考えるようになってしまった。
――死んだ――
言葉で頭に浮かんだとしても、その意味がよく解らなかった。
解りたくもなかった。
仕事も休み、食事も食べず、ただひたすら歩いた。
理由なんてない。何をすべきかも解らず、気付いたら歩いていただけ。
なるべく人気の無い道を選び、ぼうっと歩き続けた。
田んぼ。
延々と続く田んぼの水に、不気味な程に綺麗な橙色の夕陽が反射していた。
眩しい。
誰もいなかった筈だったのに、急に田んぼの横の道を、沢山の人が歩いてきた。
誰の顔も、逆光でよく見えない。
背後に橙色の光を背負い、真っ黒な人の群れが近づいてくる。
誰そ彼……
黄昏の由来をふいに思い起こしていた。
彼女に教わったことだ。
本当だ。誰が誰だか、わからない。
涙が溢れてきた。
我慢していたわけじゃない。
理由は解らないけれど、多分その時、ようやく彼女が死んだということを、その意味を、解ったんだと思う。
どうにもならなかった。恥も見栄も捨て、その場で泣き崩れた。
俺の横を、沢山の「顔の見えない誰か」が通り過ぎて行った。
誰か。
なぜ他の「誰か」ではなく、俺の彼女が死ななきゃいけなかったのか?
なぜ? なんで?
「ツイてなかったなぁ~」
彼女の声がした。
やっぱり、これは全て夢だったんだ。目を開ければそこには彼女がいて、笑っているに違いないんだ。
涙で曇った目を声のした方へ向けた。
夕陽を背に、「誰か」が立っていた。
「ホントごめんね。待ってるからさ」
彼女だった。
顔は見えなくても、それは「誰か」ではなかった。
何かを言おうと思っても、声が出なかった。
そんな俺を見兼ねたかのように、彼女は俺にキスをした。
あの、いつもの、ハッカの飴の匂いがした。
彼女も泣いていた。顔は見えないけれど、目の下を光る何かが滑っていった。
ふいに「唇を離したらいけない」と強く思った。
多分、それが別れになる。多分、それが最後の……
でも、彼女はすっと離れていってしまった。
そして、もうそこには「誰も」いなかった。
――黄昏のことを、逢魔時とも言う。
文字通り魔物が現れる時間。そこにいるのが誰なのか解らなくなる時間。誰そ彼時。
しかし俺は彼女と一度だけ再会することが出来た。
霊的なモノの存在を否定も肯定もしない。ただ一つ解ったのは、あの日、あの黄昏時に現れたのは紛れもなく死んだはずの彼女だったこと。
もう凹んでないけど、黄昏時になるといつも思い出す。
あの日の事があったから、ほんの少し、また彼女に逢えるんじゃないかと思ってる。
「誰か」ではなく、彼女に。
みんなも「誰か」じゃない愛する人のこと、大切にして欲しいと思う。普通に生活してたらそんなこと考えてられないのも解る。けどほんとたまにでいいから、意識してみて欲しいんだ。それって実は、幸せなことだから。
彼女との全ての思い出を胸にしまったまま、独りで生きていくことになった。
本当は、全ての楽しかった思い出も、全てのくだらなくってなんでもない毎日の記憶も、彼女と、老いてからもずっと共有し続けることができる筈の思い出だった。
今隣にいる誰かが、ずっと隣にいてくれるなんて思わない方がいい。
それは唐突に、何の救いも、何の慈悲もなく訪れる。
三年も付き合った恋人だった。
俺の全てを知っていた。
事故だと聞いて警察に教えられた先は病院ではなく、事故現場だった。
帰宅途中、車のハンドル操作を誤りガードレールへ激突、そのまま車は横転。衝撃で損壊したドアから半身が出てしまい、後続の車が頭部を轢いた。
事故現場の変わり果てた彼女の姿。いつも彼女が舐めていたハッカの飴だけが、唯一変わらぬ形のまま事故現場に散らばっていた。
「耐え難いとは思いますが、〇〇〇さんで間違い無いでしょうか?」
……いえ、違います。
俺の知っている、目の大きい、笑窪の可愛い、あの彼女ではありません。
違います。
人違いです。
絶対に、間違いです。
何かの間違いです。
つい朝方まで、一緒に寝ていた。
寝顔を見ながらほっぺをつねったりしていた。
夢だな、と思った。
何日間も、夢が覚めることを願って眠り、「夢であればいいと願う現実」で目を覚ました。
ずっと避けていたあの文字を、ついに考えるようになってしまった。
――死んだ――
言葉で頭に浮かんだとしても、その意味がよく解らなかった。
解りたくもなかった。
仕事も休み、食事も食べず、ただひたすら歩いた。
理由なんてない。何をすべきかも解らず、気付いたら歩いていただけ。
なるべく人気の無い道を選び、ぼうっと歩き続けた。
田んぼ。
延々と続く田んぼの水に、不気味な程に綺麗な橙色の夕陽が反射していた。
眩しい。
誰もいなかった筈だったのに、急に田んぼの横の道を、沢山の人が歩いてきた。
誰の顔も、逆光でよく見えない。
背後に橙色の光を背負い、真っ黒な人の群れが近づいてくる。
誰そ彼……
黄昏の由来をふいに思い起こしていた。
彼女に教わったことだ。
本当だ。誰が誰だか、わからない。
涙が溢れてきた。
我慢していたわけじゃない。
理由は解らないけれど、多分その時、ようやく彼女が死んだということを、その意味を、解ったんだと思う。
どうにもならなかった。恥も見栄も捨て、その場で泣き崩れた。
俺の横を、沢山の「顔の見えない誰か」が通り過ぎて行った。
誰か。
なぜ他の「誰か」ではなく、俺の彼女が死ななきゃいけなかったのか?
なぜ? なんで?
「ツイてなかったなぁ~」
彼女の声がした。
やっぱり、これは全て夢だったんだ。目を開ければそこには彼女がいて、笑っているに違いないんだ。
涙で曇った目を声のした方へ向けた。
夕陽を背に、「誰か」が立っていた。
「ホントごめんね。待ってるからさ」
彼女だった。
顔は見えなくても、それは「誰か」ではなかった。
何かを言おうと思っても、声が出なかった。
そんな俺を見兼ねたかのように、彼女は俺にキスをした。
あの、いつもの、ハッカの飴の匂いがした。
彼女も泣いていた。顔は見えないけれど、目の下を光る何かが滑っていった。
ふいに「唇を離したらいけない」と強く思った。
多分、それが別れになる。多分、それが最後の……
でも、彼女はすっと離れていってしまった。
そして、もうそこには「誰も」いなかった。
――黄昏のことを、逢魔時とも言う。
文字通り魔物が現れる時間。そこにいるのが誰なのか解らなくなる時間。誰そ彼時。
しかし俺は彼女と一度だけ再会することが出来た。
霊的なモノの存在を否定も肯定もしない。ただ一つ解ったのは、あの日、あの黄昏時に現れたのは紛れもなく死んだはずの彼女だったこと。
もう凹んでないけど、黄昏時になるといつも思い出す。
あの日の事があったから、ほんの少し、また彼女に逢えるんじゃないかと思ってる。
「誰か」ではなく、彼女に。
みんなも「誰か」じゃない愛する人のこと、大切にして欲しいと思う。普通に生活してたらそんなこと考えてられないのも解る。けどほんとたまにでいいから、意識してみて欲しいんだ。それって実は、幸せなことだから。