妖怪の歴史を振り返る
妖怪の歴史
多種多様な使われ方をされ、更に時代ごとに意味も異なり、トドメに未だ定義づけされていない(できない)妖怪さん(←このように「さん」とか付けちゃうのも下手すりゃ大論争の元)。
よく考えたら、妖怪の歴史というものをちゃんとまとめてないよな、とふと思ったのでまとめてみます。
ここでまとめるのは、「妖怪」という言葉の歴史、と言い換えた方がいいかも知れません。
1・「妖怪」という言葉にこんにちは~奈良時代~
日本で初めて「妖怪」という言葉が出てきたのは、宝亀8年(奈良時代)の書『續日本紀』であるとされています。
ただし、あくまでもその時のニュアンスは「妖しくて怪しいよくわからん現象」です。というか妖怪という言葉自体が同じ意味の漢字を組み合わせたよくわからん言葉ですし、最初は字の通りによくわからん現象を指しているだけの言葉だったんですね。
2・どこ行ったの妖怪さん~平安時代~
さぁ妖怪という言葉が出てきたから妖怪祭りじゃぁぁ! ――という流れにはならず、実は「妖怪」なんて言葉はまだまだ流行りません。
平安時代では「鬼」や「もののけ」などが主に「妖怪」に代わる言葉として使われており(現代から見て)、妖しい話に妖しいもののけが多数出る『今昔物語集』も、妖怪じゃなくもののけや鬼が出てくるだけです。今ではそれを「妖怪」と呼んでいるわけですが、当時「妖怪」と考えて読んでいた人はいなかったわけです。ややこしいけど面白いです。
3・まだまだ隠れる妖怪さん~江戸時代~
そろそろ↑の副題に「え?」となる方も出てくるのではないでしょうか?
江戸時代といえば妖怪が最高に流行した時代――と思っている方は多いでしょう。事実現代で使われている妖怪という言葉で考えれば、妖怪が跋扈跋扈してた時代なのは間違いないです。しかし、屁理屈じみたこの項での考え方でいけば、江戸時代に跳梁跋扈していたのは「妖怪」ではなく「ばけもの」なのです。
江戸時代といえば、妖怪達が多く絵に描かれ、キャラクターとして歩き出した時代でもあります。黄表紙だけでなく、絵巻や、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』などなど――もこの時代ですね。現象が姿形を得てキャラクター化し始めたのも江戸時代。京極様風に言えば「コトがモノ」になり始めた時代でしょう。
妖怪という言葉はもちろん江戸時代にはありました。
しかし、まだ「妖しいモノ、コトをまとめる言葉」には成り得ていなかったのです。
ピンと来ない方の為に、具体例を挙げましょう。
妖怪画の原点とも言われる鳥山石燕の『画図百鬼夜行』シリーズ。200以上の妖怪画が描かれているにも関わらず、全ての解説文を通しても「妖怪」という言葉は片手で数えられるぐらいしか出てきません。
今風の考えでいけば、解説文に「この妖怪は――」みたく書いたってよさそうなものですが、そもそも今と違う意味で、まだまだ浸透していなかった言葉だったからこそ、「妖怪画の原点」とも言われる画集ですら「妖怪」なんて言葉はほとんど使わなかったのです。
ある意味で、石燕が描いたのは妖怪ではなく化け物だった、とも言えるでしょう。
4・妖怪殺しが妖怪誕生になったよ~明治時代~
維新でございます。ばけものもののけ鬼迷信。そんな下らぬ世迷言、この新時代には必要無い! 拙者が成敗し、世の者を正しき道へと導いてみせるッ!
――さぁさぁ天下の妖怪ハンター、井上円了先生の登場です。
井上円了は、妖怪を否定し、解明することで、まじないや迷信を信じる愚民の目を覚まそうと活躍した哲学者。
なんだかソウイウイメージが先行し、井上円了のある重大な功績は見落とされがちなのですが……。
何を隠そう、井上円了こそが、江戸時代でもまだまだ主流じゃなかった「妖怪」という言葉を世に広めた最大の功労者なのです!
これ凄く大事。
ただし。
当時円了先生が撲滅に躍起になった「妖怪」は、今言うところの「妖怪」とは大きく異なっていることだけは忘れてはなりません。
円了先生は本当にありとあらゆる実際に起きる不可解な現象を「妖怪」としており、江戸時代に流行ったようなキャラクターとしてのばけもの達の事は完全無視しております。
「だって創作でしょ?」
ということでしょうか。
じゃあただ言葉を広めただけの御仁かと言えばもちろんそうではありません。
井上円了の台頭に刺激された多くの学者達が、様々な視点で「妖怪」を考えるようになります。
最も有名なのはやはり柳田國男でしょうか。
円了は全国の「妖怪」を分析し解明し撲滅しようとするのとは逆に、柳田は民俗学という視点から妖怪を保護します。妖怪というものを民俗学を紐解く上での重要なファクターとし、掘り下げていったのですね。
が。
まだまだこの段階では「妖怪」は敷居が高い言葉のように思えます。
円了は哲学の中で、柳田は民俗学の中で、妖怪という言葉を使っています。あくまでも学問の中で使われている言葉がもっと親しみやすい言葉になるにはもう一仕上げ必要です。
5・水木しげるはやっぱりすごかった~現代~
ここまで読んだ方はお気付きでしょう。
妖怪が今の様なニュアンスで一般的に広まったのは、実に最近のことなのです。
それを成し遂げたのが、まさに水木しげる先生です。
僕が水木先生に感じる事は二つ。
ずるい! と、上手い! です。両方とも良い意味で。
まずは「絵」。水木先生は江戸時代などに流行した黄表紙や画集の妖怪画から多くのヒントを得て妖怪を描いています。中にはそのまんまな妖怪もいますが、そこは妖怪が民意を得る為には必要なことだった気もします。
それだけではなく、水木先生は伝承でしか聞かれなかった妖怪、現象でしかなかった妖怪にまで姿カタチを与え、キャラクターとしてしまったこと。
ヌリカベなんかいい例です。柳田國男の記述にちょっと出てくるだけの「現象」だったヌリカベを、ただの四角い壁に目を付けただけのカタチある妖怪として描いちゃうんですからズルイです。子供でも思いつきそうな見た目なのに、「あぁこいつが塞ぐのか」と、やけに説得力があるから凄いもんです。
で。
上手いのは、完全な創作にせず、民間伝承を取り入れた上でキャラクターにしてしまい、「こういう怪異があったんだよ」を「こういう妖怪がいたんだよ」に上手くすり替えてしまったことでしょう。完全オリジナルならどうしても嘘くささが付きまといます。しかしこともあろうか民間伝承にその起源を残しつつ、オリジナルな容姿を与えてしまうという確信犯的神業。我驚嘆水木御大!
絶妙なウソ、とでも言いましょうか。
妖怪という言葉が培ってきてしまった(?)曖昧な部分を上手く利用した感じです。
もちろん商業的な策略もあったとはいえ、ここまで多くの国民を「妖怪はあった」のではなく「妖怪はいた」と錯覚させるように出来たのは天賦の才でしょう。
まとめ
つまるところ、水木先生なくして現代の妖怪観はあり得ない、ということです。言い過ぎじゃないのです。マジなのです。
正直なところ、僕も妖怪について興味を持ち始めた当初は水木先生の妖怪への功績を甘く見ていました。それが知れば知るほど「水木しげるやべぇ」に変わっていったのです。
調布住まいの僕は幸せです。妖怪パワー貰いまくりです。たぶん。