後悔ばかりの日々なので『月百姿』より「吼かい」
『月百姿』より「吼噦」
恋人と別れて一週間近くが経った。
誰かが僕に「別れた後のあの悲しみですけど、一週間もすればびっくりするほど薄れちゃうもんですよ」と言っていた。
マジだった。
もう随分と前を向き、かといって忘れようとするのではなく、進み始めている気でいた。
しかし昨晩――
なんとかヨリを戻し、久々に楽しく遊んだ。
……という夢を見た。
脳の馬鹿! なんで今このタイミングでそんな夢見せるのさぁ!!!
そして、理解できなかった別れも、冷静さを取り戻すにつれて多くの事が見えてきた。どちらも悪くなかった――わけがないのだ。多くの彼女の欠点も見え、また無いと思っていた僕の冷たさ、酷さもまたよく見えてきてしまった。
慣れはそういった普通に言えば「酷い、冷たい」事も、すっかり見えなくしてしまうのだ。
後悔は決して先には立たない。
悪を悪と知って行う者は畜生と同等であり、悪である。
そんな人間の醜さを描いた妖怪に白蔵主という狐がいる。
狐を狩りまくる人間の元へ、白蔵主という僧を殺し、その僧になりきった狐が説得へ行く、『絵本百物語』に載る妖怪である。
今宵の芳年の絵は、その白蔵主の話を元にした狂言である「釣狐」のワンシーンを描いた狐の絵。
吼噦、と書いて「こんかい」と読む。吼噦とは狐の鳴き声のこと。
狂言の「釣狐」では、狐を狩る猟師を説得し、満足げに帰る白蔵主が、罠に仕掛けられた餌を見つける。罠とは解っているが、解っているし大丈夫だろう、と本能に負けて結局罠にかかってしまう、という話。
人間はきっと、悪を悪と解った上で罠を仕掛けていただろう。
しかし狐は、正義感で動いていたのではないだろうか。正義感で、人を殺め、なりすました。その報いに、結局自分が罠にかかることになった。
悪を悪と知らずに行動する者も、また悪なんじゃないか。
――なんて禅問答のような意味を含んでいる話な気がする。
余談だが、狂言の「釣狐」は、真の狂言師への登竜門と呼ばれる演目らしい。
理由は、狐を演じるのが物凄くキツイだけでなく、それまで延々と稽古してきたことの全く逆の事をあえてやらなければならない演目だからなのだそうだ。
狂言のきょの字も知らない僕だが、色々な文化に、色々な世界があり、さらにその世界の中にも無数に世界があり――なんて人間の凄さ(良くも悪くも)を改めて感じるのである。
すっかり用途の減った携帯を片手に、今日も月を見上げて「来ン」と鳴く。