貧乏神はなぜ神なのか
貧乏神(びんぼうがみ)
桃鉄ならば、ちょっと近くにいるライバルに特急カードでも使って一気になすりつけに行って、たかがゲームなのに数時間の間はマジに険悪になるすごいヤツ、キングボンビーが当然思い浮かぶ。
とにかくよいイメージは全く無いのが貧乏神である。
一般的なイメージでは、ぼろぼろの服を着て杖をついているおじいちゃん――だろうか。
それが来てしまったら、福は逃げどんどん貧乏になってしまう。
だが、なぜかこの貧乏神には、「神」がついている。鬼でも坊主とかでもよかったような気もするが、神なのはなぜなのだろうか?
たぶんその理由は、貧乏神は必ずしも人を貧乏にするだけとは限らない、からなのではないか。
例えば、貧乏神が来てしまったせいで確かに貧乏ではあったが、その間貧乏神の加護を受け、何の病気もせず事故も起きずに過ごせた――なんていう守護神のような能力を持つ貧乏神の話があったりもする。
また、なぜ自分が貧乏なのか全くわからないよりも、貧乏神が来たから貧乏なのだ、と「原因」がハッキリしている点も実はプラスに考えられる点なんじゃないかと思う。
これは英雄譚などに出てくる妖怪と同じで、目に見えて現われてくれているということは、すなわち「退治できる」ということにもなり、つまり「貧乏から脱する方法」が明確にある、とも言えるのである。
なぜ貧乏なのかわからないよりも、目の前の貧乏神を追い出せれば貧乏ではなくなるとわかっている方がマシなわけだ。
ともあれ、貧乏であることも神のせいにしてしまうンだから人間というのはすごいと思う。
「なぜ貧乏なのか! 貧乏神がいるからだ!」
いやいや働けよ、という野暮なツッコミには耳も貸さない図太さがむしろ逆に痛快である。
落語にも貧乏神という噺がある。
これは貧乏神が最初から貧乏な男の家に来てしまい、貧乏神が内職をしたりして男を助けたりするかなり笑える落語。
貧乏神――という響きが、悪いイメージの妖怪であるにも関わらずどこか「軽くて」「ユーモラス」な印象を受けるのは、貧乏すらも笑って楽しんじゃおうとした江戸時代の影響があるのかもしれない。
こうなったら貧乏神さんむしろ来い。