妖怪はどのように生まれたのか?
妖怪誕生の瞬間
はいこんにちは。今更ながら――って感じのタイトルですが、その点に焦点を絞り込んだ記事は書いてなかったような気がしますので、唐突ですがちょっとまとめたいと思います。
妖怪の定義なんていうものは相変わらず「できない」ものというのは知っているかと思うのですが、定義はできないけれども妖怪というものはしっかりと古くから機能してきました。
例えば河童が「水辺には近づくなよ!」と子供たちに諭す為に便利に使われてきたり、神隠しが説明不可能な行方不明をなんとか納得する為に使われてきたりなどなど。
概ね妖怪というのは「理解できない現象にとりあえずの説明を与える」という使われ方をしてきました。
「何が起きたのかわからんパニック!」
のままよりは、
「神隠しに遭ったんじゃフムフム」
の方がとりあえずは納得できるわけです。人間誰しもが判らないことを判らないままにしておくのは気分が悪いですからね。
で、妖怪誕生の大事な要素の一つが、「狭間であること」です。
自分の生活圏内と、未知の世界との境界線。極端に行っちゃえばあっちの世界とこっちの世界の狭間。
そこに妖怪は大体沸くものなのです。
例えば、逢魔が時。
太陽が沈みかけ、夕方から夜へと変わり移ろうその時刻。
道行く人々の表情も読み取れない、けれどもぼんやりと輪郭だけは判る、曖昧模糊な世界。それが逢魔が時です。
まさにその時刻も昼と夜との狭間。真昼間に見れば尻のプリプリした美人の姉ちゃんも、逢魔が時に見ればなんだかわからん尻だけプリプリのよくわからん生き物。
ちょっと勇気を振り絞って、背後から近づいて声を掛けてみる。
「はい、何か?」
と振り返ったその顔には――目も鼻も口も無いつるんとした肌だけが!
ワオッ! のっぺらぼう出たッ!
となるわけです。ただ逆光かなんかでよく見えなかっただけだとしても、「オラあの辻でのっぺら姉ちゃん見ただ!」と言い触らせばただの勘違いも広まるにつれて骨組みがなぜかしっかりしてきて「俺も見た」とか言い出す輩まで現われ晴れてのっぺらぼう誕生、みたいな。
さて今度は少し田舎道を行きまして、深山に囲まれた農村部。
ここでは村が人々の世界であって、山の中というのはいわば「あの世」みたいなもんです。よくわからん未知の世界なのです。
村と山との狭間には、タヌキも出ればキツネも出る。そう、こいつらもやっぱり化けるだのなんだの言われる妖怪です。
更に、山の中には村人もあまりよく知らない山の民が住んでいたとします。
彼らは製鉄を生業とし、鍛冶による高温で片目が潰れ、中にはふいごを操作するために足まで悪くなっている者もいます。
それが山の入り口付近で村人とばったり遭遇。
で、た、ッ! 山男!
村人は帰るなり「片足で一つ目の山男現る」との報を流し、同じように遭遇したことのある者が「おらも見ただ!」なんて言い出してはい山男誕生、みたいな。
この山男、全国に似たような妖怪はいるのですが、中には「山の神」と呼ばれているものもいます。
これは、たぶん村人にとって何らかの形でメリットのある、有り難い存在だったからなのではないかと思うのです。
妖怪と神は表裏一体なところがありますし、大体の民話では妖怪も神も二面性を持っているものです。
お次は農村部を流れる川に目をやってみましょう。
水辺というのは、川も海も滝も湖も、基本的に昔の人は嫌うスポットでした。
それもそのはず、現代のように治水工事も行き届いてませんし、まぁよく事故は起きる。
ちょっと転落して水死しちゃったとか、流されて行方不明になった場合は、河童の仕業になるでしょう。
ぶくぶくに膨れて肛門もばっかー開いたドザエモンを見て、皆は「ほれ見たことか河童に引きずり込まれて尻小玉抜かれたんじゃ」と言うわけです。
これがドジャァっと大雨でも降って川が氾濫して暴れ狂った場合は、水神様の怒りだとか、蛇や龍が暴れた――みたいになるのでしょうか。
なんにしろここでもしっかり妖怪的なものが、人智を超えた現象を説明するために使われるわけですね。
神話で有名なヤマタノオロチなんかは、暴れ狂う川の権化だと言われています。
それをスサノオが退治するわけで、これはつまり人が自然をもコントロールするのだ、ということにほかなりません。
しかし現代においてでも震災や洪水で多くの命が失われているわけで、自然はやはりまだまだ妖怪なのです。
ただ、自然災害を妖怪のせいにするのにはもう一つ別の効能があります。怒りのやり場を作る効果です。
自然災害ばかりは誰を責めるわけにもいきません。そこで昔の人々は、妖怪のせいにすることで虚しさを紛らわせたのではないでしょうか。
ではそろそろ脳内フィールドワークも疲れてきたので、都会へと帰りましょう。
ここには山もなければ川もない。江戸時代でもそれは例外ではありません。
自然の中に沸く妖怪たちは黄表紙の中だけの創作物となり、野暮と化け物は箱根より先、なんて言葉も生まれるほど、江戸には妖怪のようなものは現われなくなりました。
しかし都会にはおぞましいほどに多くの「人」が棲息しています。
さらに人々は、真に禍々しいのは人だということも痛感していきます。
すると――幽霊が沸くようになるのです。
江戸時代に大流行する怪談などは、その多くが幽霊譚であり、また人の業が絡んだ因果モノです。
すっかり一人歩きして「私、妖怪じゃありませんけど何か?」みたいな顔した幽霊が都会では主に沸くものになってしまいました。
さてでは時代も現代に戻りまして、辺りをちょっと見まわしてみましょう。
僕が住んでいるマンション。
ここでは、この部屋のみが僕の世界であって、壁一枚隔てた隣の部屋はもう未知の世界です。
大きな国道を挟んだこちら側はよく歩きますし、利用する店も多いので詳しいのですが、国道のあちら側はほとんど知らない、これまた未知の世界です。
いつも利用する駅の、一つだけ隣の駅もまた、一度も降りたことのない未知の世界です。
そんなどこにでもある未知の世界との狭間で、自分の頭では到底理解できない現象やモノに出遭ってしまった時。
古くから語られてきた妖怪というのは、そのような時に生まれてきたのだと思うわけです。現代では無理よ、たぶん。