ヤンボシ
ヤンボシ
鹿児島県や宮崎県では、山道を歩いているとヤンボシ(またはヤンブシ)という妖怪に出会うことがあるという。
坊主が首吊りをした場所には必ず現れるとも言われ、夜の山で行き合うと攫われてしまうともいう。
気付いて逃げれば確実に追いかけられ、攫われてしまう。
しかしこちらも気付かなければ、ヤンボシから一方的に襲ってくるような事は少ない。
このヤンボシ、語源は山伏や山法師だと言われている。
古くから、多くの妖怪は辿れば人に対する蔑視であることはままある。
このヤンボシなどは、まさにソレなのではないかと思う。
――平安時代、比叡山延暦寺を守る武装した僧兵達は「山法師」と呼ばれていた。
その後戦国時代に入り、大きな力を付けていった山法師達だったが、有名な織田信長の大量虐殺、延暦寺の焼き討ちにより、そのほとんどが殺され、残った者も命からがら逃げ隠れた。
南方へと逃げた山法師達は、山の中でこっそりと暮らしつづけ、いつしか山の外の者からは知られてもいない「いないはずの存在」となっていった。
しかし、いくら山の中でこっそり暮らすと言っても、子を成すには知れた面子だけでは血が濃くなりすぎる。
そこで山法師達は偶々山に迷い込んでしまった娘や男を攫い、なんとか子孫を残し存続し続けた。
そんな事を続けるうち、山の外の者達は、
「あの山に行くと攫われる。けれどもあの山には人を攫うような者はいないはず。あれは妖怪だ。ヤンボシという妖怪なのだ」
と言い伝えるようになった。
とか。
これはあくまでも想像ではあるが、このように語られるようになった妖怪というのはきっとある。
普通ではない、自分達と違う、いるはずのない、いてはいけない。
そういうシンプルな違いは広がるほどに差別的になっていき、最期には妖怪にされてしまう、というような事はよくあったのである。
河童も、鬼も、天狗も、また然り。
真に平等である世界などあり得ないだろう。
それこそ、妖怪のような「本当はないと解っているのにあることにする」のと同じな気がする。
妖怪は、ユーモラスで笑える顔を覗かせる一方で、人の暗部そのものでもあったりするのだ。
ある人にとっては、僕自身も妖怪なのかも知れないのである。