七人同行・七人童子・七人ミサキ
七人の謎
以前七人ミサキを紹介したが、なぜか四国には七人の付く名前の妖怪が他にもある。
七人同行(しちにんどうぎょう)、七人童子(しちにんどうじ)。
これらは香川県の妖怪だが、他にも七人同志というものもある。
七人ミサキのように七人ワンセットで現れるのは共通している。
同行と童子は、共に「四辻で行き合う」という共通項があり、同行は牛の股間から覗き見た時のみ姿が見えるともいう。
童子の方は、首切れ馬を先頭にして現れるとか、特定の四辻に丑三つ時に通ると現れる、などの伝承がある。
一方で、前にも紹介した七人ミサキの方は、主に水辺に出る。
遭ってしまうと高熱を出して死んでしまい、七人ミサキの内の一人が成仏するのだが、代わりにその時死んでしまった犠牲者が七人ミサキに加わり人数が増減することがないのだとか。
とにかく多く出てくる「七」という数字。
一説では、戦国時代の四国でのいざこざ(吉良親実が長宗我部家ともめて切腹させられ、その際に同じく切腹させられた七人の家臣が怨霊となって七人ミサキとなった説)が大元説が有名。
他にも農民騒動で処刑された七人の農民が祟っている説などがある。
大元になったのは七人ミサキで、同行・童子は他の何かと混ざったり、こじつけで作られたような気がする。
例えば童子の特徴である、「四辻に丑三つ時に現れる」というものは、四辻の四と丑三つの三を足して七になる。これはちょっと上手くできすぎじゃないだろうか。
それよりも。
なぜ「七」という数字が付きまとうのかをまずは考えたい。
実は四国は何かと「七」と縁のある場所なのである。
まず、戦国時代、四国は七つの豪族達によって支配されていた。それが、「土佐七雄」である。この中にはもちろん長宗我部氏も吉良氏も含まれる。
また、長宗我部家家紋は「七つ酢漿草(ななつかたばみ)」。これは長宗我部氏が土佐七郡を平定した時に出来たものとされている。
そして、土佐七雄の内の吉良親実が謀叛の疑いで自害させられることになる。
親実は家でゆっくりしていたところをいきなり押しかけられ、突然切腹を命じられたらしい。そして腹をかっさばき腸を掴みだそうとしたところ、首を落とされたのだとか。
その後家臣七人も無残にも切り殺された。
その殺された七人の家臣が、「七人ミサキ」と呼ばれ畏れられることになるのでる。
因みにその際、「首の無い馬に乗った亡霊を見た」などの目撃情報が相次ぎ、さらにはそれを見た者が高熱で死んだりしたらしい。
怨念を恐れた長宗我部元親は、わざわざ怒りを鎮める為の「吉良神社」まで建立しているのだから余程恐れたのだろう。
ここで面白いのが、七人ミサキ、に謀叛の疑いで切腹させられた張本人吉良親実は入っていないことである。
家臣が七人で、親実も入れると八人になってしまう。
でも、張本人が入らないっていうのもおかしい気がするのだが……。
そこはやはり土佐七雄になぞらえたのだろうか? 或いは柳田國男が書いたように、北辰信仰(北斗七星の信仰)が関係している可能性もまだまだ捨てきれないが、北辰信仰の妙見菩薩との各氏のつながりが見つけられなかったのでわからない。
しかし七星の内の一つ、破軍星が災いを呼ぶ星とされていたりするので、繋がらなくもない気がする。でもわかんね。
ここまで調べてみると、やはり大元はこの吉良親実怨霊説で、同行や童子はそれらを何か他の俗信と混ぜ込んだりしたものなんじゃないかと思う。
数字の七との関係性をもっとはっきりさせたかったのだが、意外と北斗七星との関連性が発見できなかったので平凡な結論になってしまった。
まさか秦氏まで遡れば何か見えるのか?
そんな喜びきれないスリーセブン。