羅刹さんは置いといて「悪鬼」
悪鬼(あっき)
古来より世に起こる多くの災い、特に流行病や疫病などは鬼、それも悪い鬼である「悪鬼」の仕業とされてきた。
鬼だから悪いにキマッテルジャンと思うのは早計で、そもそも鬼は「よくわからないこと、もの」を指す言葉であり、妖怪の元ともなっている言葉である。
さてそんな悪鬼を、水木御大は『日本法華験記』にある逸話を引用して紹介している。
それによれば、昔但馬(兵庫)のある寺で、年老いた僧と若い僧が迷った挙句に泊まることにしたのだが、夜になると悪鬼が現れ二人を食い殺そうと襲ってきた。
面食らった年老いた僧はみるみる食いちぎられてしまうのだが、若い僧はその寺に置いてあった像を抱き、必死に法華経を唱え続けた結果、一命を取り留めた。翌朝明るくなってから抱いていた像を見ると、毘沙門天像だった――というお話。
要は「みんな法華経を唱えましょう!」というエピソード。
悪鬼を退ける為には法華経を唱えれば助かるらしい。
また、若い僧が抱いていたという毘沙門天。上杉謙信が自ら毘沙門天の化身と言い、旗印にも「毘」を掲げていたりすることでも有名だと思う。
この毘沙門天、仏教でいう「天部」の四天王の1柱であり、多聞天ともいう。
で、この毘沙門天が眷属として率いているのが、夜叉と羅刹である。
夜叉も羅刹も鬼神であり、特に夜叉は人を喰ったりする。
その辺も知っておくと、この『日本法華験記』の逸話も「なるほどねぇ」などとちょっと知ったかぶって理解できたりする。
医学も科学も発展していなかった時代において、悪鬼に対抗できるものは信仰以外になかったのだろう。
そう考えると、多くの宗教が流行り廃れ巨大化していったのも自然と納得できる。
何かに固執し、燃えてしまっている目で物事を見ても正しいことはわからない。
人の身体から出る物に綺麗なものなど何一つ無い。
けれども、心を鎮めて悟りを開けば、そんなことは関係無しに華は咲く。
泥に塗れた池の水面にも、法の華は咲くのである。
さぁみんな法華経を唱えよう!
――ってこと。