平成俄か入道
俄か入道(にわかにゅうどう)
少し飲み過ぎていて、足取りは覚つかず、フラフラと川原の上のサクリングロードを歩いていた――と思います。
その辺りは地名に「狐」が入っている場所が多く、祖父にもよく狐に化かされる話を聞かされていました。
ふと見ると、深夜だというのに、薄ぼんやりとした淡い街灯に照らされて一匹の狐のような動物が河原にいるのが見えました。
普段狐なんて滅多に見ませんから、たぶん狐だった――という程度の認識なのですが、それでもやっぱり狐のようでした。
その狐は、頭に木の葉を載せて、抱えるように川のゴミだか藻だかを丸めた物をジッと見つめていました。
酔っていた私は、恐がるでも面白がるでもなく、ただボウッとその様子を見ていました。
――と、ほんの僅かに意識が飛んで、また目を凝らした時、河原にいるのは狐ではなく女性と、女性に抱かれた赤ん坊に変わっていました。
「化けた――のか?」
定まらない混濁した意識で、私はなぜかそう思いました。
化ける――なんて言葉、そうそう使うものではないですし、この現代でそんな風に思ってしまったことが馬鹿らしくもあるのですが、とにかくその時はそう思えたのです。
私は酔いで気が大きくなっていましたし、産まれて初めて化け狐を見てしまって興奮もしていました。そこで「ちょっと驚かしてやろう」なんて考えて、道端に落ちていた石を拾って投げたのです。
ずぶり。
そんな音が聞こえました。どうやら私の投げた石は赤ん坊に直撃したようでした。
母親の女性はすぐに私の存在に気づき、目を丸くしてこちらを見ました。
そしてすぐに赤ん坊に目をやり、大きな悲鳴を上げました。とても人の悲鳴とは思えない、恐ろしい悲鳴です。
私はフラフラと女性の元へ歩いて河原へと降り、「狐のくせに何を叫んでるんですか」というような事を言ったよな気がします。
女性は物凄く怯えた表情で泣きながら、震える声で私に云いました。
「なんてことをするんです!」
狐は人語を喋るのか――と妙に感心するのと同時に、私は少し気おくれしてしまいました。
「見ていましたよ。それは赤ん坊なんかじゃないでしょう。早く狐に戻って帰ればいい」
女性は汚い物でも見るような目で私を見て、相変わらず泣きながら赤ん坊に声を掛け続けていました。
赤ん坊の頭部からは血が流れ出ていて、ぐったりしています。元はゴミか藻なのに。
救急車を! 警察を!
女性は大声で泣きながらそう叫びました。私は少し苛立ってきて、女性の頬を叩きました。
「狐が警察を呼んで何を主張するっていうんです? 早く狐に戻れよ!」
女性はただ怯えるだけで、狐に戻る様子もありません。女性は私に叩かれた衝撃で河原に突っ伏していました。そして恨めしそうに私を睨みつけて、嗚咽混じりにこう叫びました。
「あなたは何を言っているの? 人殺し! 鬼!」
血の気が引く――というのはああいうことだと思います。
冷静になっちゃったんですね。
化け狐に石を投げた――なんていう話よりも、私が本物の親子を化け狐と勘違いして赤ん坊を殺してしまった――と考える方が遥かに現実的です。
目の前が真っ白になり、数分間私の思考の一切は停止していたように思います。
殺してしまった。赤ん坊を。石を投げて。
私が。私が。
「狐……だと……」
「狐? それが人殺しの言い訳ですか? 酔ってるんですね? 早く警察を呼んで下さい! 助けて! 誰か助けて!」
女性の顔が、殺される――とでも思ったかのような表情になりました。私は人殺し。だから殺される。違うのに。私は狐を脅かそうとしただけなのに。
私はパニックになり、大声で叫ぶ女性を押さえつけ、その口を塞ぎました。
暴れる女性を捻じ伏せ、ただ「静かにしろ」と声を押し殺して脅し続けました。私はもう人ではなく、女性の言うように鬼になっていたと思います。
明日は会社は休もう。でもなんと説明したらいいんだろう――。
女性を捻じ伏せながらもそんな事を考えていたんです。本当に馬鹿らしい。
その時、背後で声がしました。
「何をしているのです?」
全てが終わった――と私は思いました。赤ん坊を殺して、母親を押さえつけて、それを目撃されてしまった。全てをもみ消すには、全員を殺してしまえば……。
私が振り返ると、街灯で丁度逆光になり輪郭しかわからない「誰か」が立っていました。
しかし輪郭と、丸い頭から、恐らく坊主であることはわかりました。
何を思ったか、信じてくれる筈もないのに、私は涙声でその坊主に事の仔細を話しました。坊主ならどうにかしてくれる――と少しだけ本気で思ったのかも知れません。
坊主はただじっと私の話を聞き、「過ちに過ぎる」とだけ呟き、私をその場に座らせました。
いつの間にか私は泣いていて、坊主は泣く私の髪の毛を剃っているようでした。
凄く痛い。でも、その痛みで赤ん坊を殺してしまった罪が薄れるような、そんな錯覚を覚えて、私はただ黙って髪を剃られました。なぜ剃髪するのか? なんていう疑問はその時全く起こりませんでした。むしろそうすることが当然――ぐらいに思えていたのです。
どのぐらいの時間そうしていたのか解りません。
閉じた目の瞼の裏がトキ色に染まった頃、坊主は「どうぞ」とだけ言いました。
私は静かに目を開けると、もう夜が明けていることを知りました。
そして周囲には――何もありませんでした。誰もいませんでした。親子の姿も、赤ん坊の死体も、坊主もいませんでした。
ただ私の髪の毛は、動物に食いちぎられたようになっていたのです。
しばらく放心していたのですが、我に返って真っ先に会社に電話をして、「狐に化かされたので休みます」と告げました。
それ以降、私は度々その河原に立ち寄り油揚げを供えるようになりました。
酔った末に見た幻だったとしても、本当に狐だったとしても、もうどちらでもよくなっています。
ただ、あの日を境に私の考え方が一変したことだけは確かです。