妖怪うぃき的妖怪図鑑

妖怪うぃきから産まれた妖怪図鑑ブログ。妖怪の原点に触れ、もっと魑魅魍魎を知るきっかけになれば幸いです。

日本神話と妖怪~国産み編~

 

国産み編

さて前回の天地開闢編に引き続き国産み編です。だんだんと馴染みのある神様が出始めてきたり、多くの伝説を持つ神様が出始めてきたり、更に妖怪とも結びついてそうな神様も出始めてきたりと、とにかくイザナギイザナミの夫婦は様々なモノを産んでくれるので楽しくなってきます。

 

長い前フリは記紀内だけでお腹イッパイなので早速イザナギ、イザナミのアツアツっぷりから国産み編を始めたいと思います。

 神々の交接

――まず、伊邪那岐と伊邪那美は別天神によって国作りをするように命じられます

 ここは割と大事でして、『古事記』では上記のように。『日本書紀』では自発的に国作りを始める、ということになっているんですね。

命じられたからやったのと、自分達で始めたのとでは大いに違います。

カンナガラ思想を受け継いでいるから――という説がありました。惟神とも書きますが、これはここでの場合、「神の意のままにお任せする」ような考え方とでも解釈すればいいのかも知れません。古事記での場合です。

一方の日本書紀では、やはりこれまた外国への体裁とかがあったのかも知れません。

『古事記』と『日本書紀』という似たような書物があることに煩わしさを感じたこともありましたが、今ではむしろ二作あったからこそ解る部分、というのが面白いと思います。

故に日本神話を考える場合、古事記と日本書紀の両方を比べながら見て行かなければならないのだそうです。なるほどね。

と、日本神話というのは多くの倭の国にあった氏族達の信仰を総まとめにした――と前回書きましたが、故に宗教色の濃い部分が沢山あります。

更に、他国の神話・伝説をモチーフにしたと思われるような話も多く、完全日本オリジナルではないことは間違いないと思います。

特にお隣さん、中国の思想の影響はかなり受けてるようです。

そこらへんを頭の隅に置いときつつ読むと色々と興味深くなります。

 

で。

まず初めに、別天神達は二人に雨沼矛(あめのぬぼこ)というちょっとカッコ悪い響きの矛を渡します。二人は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、カオスな原初の世界をぐーるぐるとかき混ぜるのです。

そのかき混ぜた世界からなんと! ――という展開かと思いきや予想の斜め上を行く日本神話は、矛から垂れた滴が積もり積もって「淤能碁呂島(おのごろじま)」というこれまたなんともキモカワイイ響きの名前の島ができます(このオノゴロ島が現存するのか否かは諸説あり、はっきりわかっていないものの淡路島周辺というのが濃厚なんだとか。オノゴロの意味は、自ずから立つ! ほどの意味)。

伊邪那岐と伊邪那美は、島が出来ても生活が出来ないので、次に大きな柱を立て、さらに広い家を作りました。

男女二人が広い家の中でぽつーん。

やることは一つですね。

まず伊邪那岐が口火を切ります。

 

「ねぇ、君の身体ってどんな風に出来ているの?」

 

変質者顔負けの不気味発言ですが、神なので気にしてはダメです。僕等人間風情がとやかく言える相手ではないのです。

伊邪那美が返します。

「身体はいい具合に出来上がったの。でもね、一か所だけ、しっかりくっついてくれない部分があるの」

ほう。

「僕も身体はすっかり出来上がったよ。ただね、僕には一か所だけ余っている部分があるんだ」

まさか。

伊邪那岐が続けます。

「そこで、だけどね。僕の余っている部分を、君の塞がらない部分に挿しこんで、国を産もうと思うんだけれど、どうだろう?

「それ最高ね!」

 

――なんだこの口説き文句は。でもいいのです。神は、いいのです。

続けます。

 

「よし、そうと決まれば、この大きな柱を回って結婚しよう! 君は右から回って僕に会うんだ。僕は左から回って君に会う。そして……しよう!」

↑のセリフの原文がちょっと素敵(と僕は思いました)なので引用してみます。

然らば、吾と汝と是の天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比爲む

この最後の部分、美斗能麻具波比爲む。みとのまぐはひせむ、と読みますが、「みと」というのが御所、つまり性交しようとしている場所で、「まぐはひ」は目合で、目と目を合せ心通わせる意味が転じてここでは性交の意味になっています。

マンネリ化したカップルも、神話プレイでもしてみて、「われとみとのまぐはひせむ!」とか言えば雰囲気出るかも知れません。俺達何やってんだろ感も凄そうですけど。

 

話を戻します。

――お盛んな二人は早速柱を回り始めます。その時、伊邪那美が

あなたって本当にイケメンね

と言い、その後伊邪那岐が

君は本当にキャワイイよ

と言いました。

しかしここで突然伊邪那岐が、

女が先に発言するなんて不吉だ!

と、コトの前なのに凄く差別的で醒めるような発言をします。

それでもやっぱりお盛んな二人は結局性交し、記念すべき初めての子が生まれました。それが……

水蛭子(ひるこ)――。

 

古事記ではこのように自然な形で性交へと至りますが、日本書紀ではセキレイが頭と尻尾を動かす様を見てイザナギとイザナミは性交の仕方を知ったことになっています。

このセキレイを調べると、なんと台湾に今も存在しているアミ族の神話に日本書紀の↑の記述とほぼ同じ記述があるようなのです。さぁどっちが先だ?

 

ヒルコ考察

不具の子であった水蛭子は、悲しいことにすぐに葦船に乗せられて流し棄てられてしまいます。次に淡島(あわしま)という子を産みましたが、この子も同じようになかったことにされました。

 

さて一旦中断しまして、とかく物議を醸しそうなこのヒルコについてちょっと考えてみます。

ヒルコと言えば七福神でもお馴染みのあのえびす様とも言われてます。

えびす様は、戎、とか夷、と書き、異邦の者を神とした神で、日本神話では事代主神であるとも言われたり、漁業の神とか商売の神とか、とにかくマルチな才能を持った神様。

しかしこのヒルコ=えびす様とするのは早計で、むしろ七福神にもいるえびす様が日本神話に出てこないのはおかしい! どこかにいるはずだ! という願望の元で強引にヒルコがえびすと結び付けられてしまった説もあります。

つまりえびす様ってのは由来がよくわかってないから、いろんな神様と混同されちゃうんでしょうね。

加えて、不具の子であったからという理由で流されてしまったのが可哀想、という念から、めでたいえびす様と結び付けて少しでもその哀れさを消してやろう、という考えもあったかもしれません。

今では蛭子と書いてエビス、と読んだりもしますから、この企ては大成功でしょう。

 

ただ、伊邪那岐と伊邪那美が不具の子だったから「いらない」と考えて流したわけではないと思うのです。

葦船に乗せて流してやるという行為。これは太古に伝わる再生の儀式ともリンクするので、つまりヒルコを「再生させる為に流してやった」とも考えられます。

ほかにも、ギリシャ神話との類似点も多いです。ギリシャ神話でもゼウスとヘラの最初の子が不具の子(ヘパイストス)であり、天から海へ投げ捨てた、なんていう部分があります。さぁどっちが先だぁ?(遥かにギリシャ神話の方が先です)

 

次に、日本書紀との違いを見てみます。

書記では、一書(あるふみ)の中でヒルコ(一書では蛭児)が出てくるのはもっと後、スサノオとかアマテラスらが産まれるのと同じタイミングで登場し、不具の子であることは全く同じ。

ここでアマテラスに注目すると、面白いことがわかります。

書記では、天照大御神は複数の名で語られます。

その中の一つ、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。

また、大日女とも呼ばれます。ヒルメとヒルコ。これが果たして無関係なのでしょうか?

この説は昔からあるようですが、更に調べてみると、四世紀頃までは大和の国には別の太陽神が祀られていたようです。

しかしその太陽神は大して祀っている社も少ないマイナーな神だったそうで。

ここからは僕の勝手な推測です↓

そして六世紀、天皇家の威厳を確固たるものにすべく編纂される古事記と日本書紀作成にあたり、天照大御神というスーパー太陽神を天皇家の先祖にあたる皇祖神とします。

様々な氏族の信仰伝承を総まとめにした記紀でしたが、どうしても皇族と結び付けるために多少のゴジツケは必要なわけです。

そこでずっと別の太陽神を祀ってきた数少ない氏族が文句を言う。

「そりゃあんまりだ。アマテラスなんてうちらは知らんぞい」

「いやそこはわかってくださいよ仕方ないんです。大体あんたらの太陽神って人気無いし知名度も低いし」

「じゃあなんだい? 無かったことにするんか? 罰当たりじゃ呪われる祟られるぅ!」

「……。解りました。しっかり書いときますよ。丁度似たような神話が異国にあるし、生まれ変わってアマテラスになるような感じで、いいですかね?」

「それならオーケーじゃ」

そして晴れて元から祀られていた太陽神は「ヒルコ」として書かれ、不具ではあったものの流されてその後に対となる「ヒルメ」なるアマテラスが誕生する――みたいな。

そんな想像をしても、あえて不具の子とした理由と、本来「昼児」であったヒルコを水蛭子として水属性を与えた理由などははっきりとはわかりません。まぁお蔭でえびす様とは無理なく一緒になれたりしたわけなんですが(えびす神は海より出づる水神でもあります)。

 

と。うっかりスルーしそうになりましたがアハシマなる子も同じように神の仲間入りをさせてもらえない悲しい運命をたどっています。このアハシマも諸説あり、淡路の西方にある島、だとか、四国周辺の阿波島のことじゃないか、などと言われています。後述の、最初にちゃんと生まれる子が淡路島であることとも関係ありそうです。

 

国産み

案の定予想通りに凄く長い記事になってきましたが、いよいよ国を産むトコロまで来ました。

なんだかうまく子供が作れないイザナギイザナミ夫婦は、別天神の元へ戻りアドバイスを受けます。別天神達は占いによって、「今度は男から声をかけ、柱を回るのも逆回りにしなさい」と告げます。ちょっと考えればそれしかない気もするのですが神様はお茶目なのです。

早速オノゴロ島へ戻った二人は、仕切り直します。

「君は本当にキャワワだね」

「あら、あなたもかなりのイケメンよ」

なんだこのバカップルは。

そして柱を逆回りに回って出会い、そこで性交します。

すると今度は次々と良い子が生まれてきたのです。

 

 最初に生まれたのが淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)、つまりこれは淡路島のこと。

次に、伊予之二名島(いよのふたなのしま)が産まれます。この子は体が一つで顔が四つあり、それがそれぞれ愛比売(えひめ。つまり愛媛)、飯依比古(いひよりひこ。讃岐、つまり香川県のこと)、大宣都比売(おほつげひめ。阿波、つまりは徳島県のこと)、建依別(たけよりわけ。土佐、つまりは高知県のこと)と名前がありました。まとめて四国ですね。

国を人に見立てる擬人化がここでは露骨になされています。日本が擬人化大好きなのは今に始まったことじゃなく、神話からだったのです。

 

次に隠伎之三子島(おきのみつごのしま。隠岐の島のこと。後醍醐天皇や後鳥羽上皇が配流された島でもあります。三つに分かれているような群島であることから、三つ子の島との名前が付いたのでしょう)。

次に産んだのは筑紫国、つまり九州。この子もまた体が一つに顔が四つありました。

白日別(しらひわけ。福岡県辺りです)、豊日別(とよひわけ。福岡、大分辺りです)、建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ。肥前、肥後。つまり長崎熊本佐賀です)、建日別(たけひわけ。熊本県から鹿児島県辺り)。

次にぽんぽんぽんと産んだのは伊伎島(いきのしま。まんま壱岐島ですね)、津島(つしま。これもまんま対馬)、佐度島(さどのしま。もちろん佐渡のこと)。

そしてお次が大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)。これは本州です。

以上八島を合わせて、大八島国(おおやしまのくに)と呼びます。なんかかっこいい! 日本にとってものすごく大事な八島なわけです。

その後も古事記では六島が産まれるのですが、それはカギカッコで消化するとして(吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島の六つ)、ここでは日本書紀との違いについて。

日本書紀というのはほんとにまとまりのない書でして、いろんな話がごちゃまぜになってて、国産みに関してもいくつかの話があるわけです。出てくる島、出てこない島があったり。

が、古事記と日本書紀の諸話を比べても、絶対に共通している六島というのがあります。

それが、淡路、四国、九州、佐渡、隠岐、本州です。

これはつまり日本にとって絶対書き洩らせない島だったわけですが、よく見ると多くが海洋の要衝。佐渡とか隠岐とかいるかぁ? って思いがちですが、大人の事情も踏まえつつ広い視野で見てみると外せない島なのが解るわけです。

つまり凄く他国を意識した記述です。

「この島はウチのだからな! 絶対だからな!」

という強い主張が籠っているようにも感じますし、特に対中国への思惑が濃いんですね。当たり前なんですが。

 

流石だぜジャパン

 世界中に伝わる神話などとの類似点はありますが、神が性交して国が産まれた! という展開は比較的珍しい話のようで、そこは流石だぜジャパンといったところでしょうか。

この国産みの部分は重要である上に謎がいっぱいのロマンパートでもあります。

擬人化してるよ! という感じで書かれている島がある一方全然擬人化してる感の無い書き方をされている島があったり、ヒルコの陰に隠れて目立ちにくいけれどもすごく怪しいアハシマがいたり。

 

そういえばまだ妖怪っぽいのでてきてませんが、ヒルコも妖怪的と言えば妖怪的でしょうし、もしかしたら僕が知らないだけですでに多くの妖怪関係神がいるのかもしれません。その辺りは詳しい方教えて下さるとすごくうれしいです。

 

とにかく!

めちゃ長くなりましたが、国産み編も完。次回は神産みからイザナミさんの悲劇と、どこをとっても奇天烈な神話の世界はまだまだ続きます。そしてようやく、ようやく、妖怪と関わりありそうなのも出てくる予感がありますので、お楽しみに!

つづく(かどうかは神のみぞ知る)