現代版鬼女さん
鬼女(きじょ)
――鬼女の朝は早い。
長野県在住の鬼女さんは、まだ早朝五時だというのに台所で料理をしていた。
「冬だろうと、仕込みをサボるわけにはいかないんです。すぐに腐ってしまいますから」
あかぎれだらけの手を拭いながら、鬼女さんはそう教えてくれた。
捕まえた人間はすぐに解体し、部位毎に適した下ごしらえをして保存をしないとすぐに腐ってしまう。もう数百年間も同じ作業をしてきている鬼女さんの動きには無駄が無かった。
「安達ヶ原の鬼婆、紅葉狩り、鈴鹿御前。世の中に鬼女と呼ばれる仲間は沢山います。でもまだ私達は人間に受け入れられない。私達も人間なのに」
沢山の爪を剥がした指が入った鍋をかき混ぜながら、鬼女さんは淋しそうに視線を落とした。
これが鬼女の実情である。
ほんの少し人とずれてしまっただけで、人は人を鬼と呼んだり、変質者と呼んだりする。
鬼女さんは、生れた頃から人間が好物で、毎晩仲間と共謀しては人間を捕らえ、食べていた。
「……それだけのことなんです。なのにいつしか私は鬼女と呼ばれていました。仲間は捕まり、殺され、晒され、私はこうして山奥でひっそりと暮らしている。郵便だって届くんですよ。ただ、配達員の方も私の事を少し怖がっているみたいでしたけど」
鍋の中から一本の良く味の染み込んでいそうな指を取り出し、鬼女さんは息を吹きかけて冷ましながら齧った。
どこか愛嬌のある、可愛らしい仕草に見えた。
「どうぞ、みなさんも召し上がってくださいな」
朝八時。鬼女さんは取材班全員分の朝食も作ってくれていた。とても鬼の女とは思えない心遣い。
一人のスタッフがその料理を苦々しげに見ていた。
それに気付いた鬼女さんは、やっぱりそうですよね、と言うかのように肩を落として一人で静かに食べ始めた。
「わかってるんです。今回取材を受けるにあたって、覚悟は決めていました。でも――最後に少しでも、誰かと楽しく食べたり、話したりしたいなって。そんな風に勝手に思ってたんです。鬼女なのに。鬼女のくせに」
皿の上に白菜と共に盛られた目玉を抓み、鬼女さんはぱくっと口に放り込んだ。
くにゅ、くにゅ、シャリ、くにゅ。
不思議な咀嚼の音が静かな食卓に響いていた。
午後三時。
鬼女さんは大きなリュックを背負い、ひたすら山道を登っていた。取材スタッフはほとんどが男で構成されていたが、鬼女さんの恐ろしい程の山登りのスピードには誰もついていけなかった。
鬼に非ず。されども人にも非ず。
トゲだらけの妙な草が生い茂る獣道をなんとか抜け、漸く取材班が追いついた時、鬼女さんは登山道の真ん中に屈みこみ、何かをしていた。
「もう、遅いですよ、男のくせに」
鬼女さんは息も切らさず笑顔で我々にそう言った。
「今から罠を仕掛けます。すごく原始的な罠なんですけど、まさかこんな登山道に罠が仕掛けられてるなんて思わないでしょう? 週に一人ぐらいは掛かってくれるんです」
それは小さな穴だった。人の足が入るか入らないかぐらいの大きさである。
「小さな落とし穴。ここに足が入っちゃうと、トゲトゲの毒草が刺さるんです。どんな毒草かは鬼女の秘密で言えないんですけど、しばらく歩くとフラフラしてくるんです。足も挫くし、体も変。そうなってきた辺りに――私の家がある」
鬼女さんはそこまで言うと、ペロっと舌を出しておどけた表情を作った。そして、
「いただきます、です」
とにこりと笑いながら言った。
取材班の誰もが、鬼女さんの不思議な魅力に気付き始めていた。鬼女――それはこの不思議な魅力から来るものなのではないか。年齢は到底人間では生きていられぬ程に高齢であるのに、容姿は40代ぐらいに見える。
鬼女さんの家に帰る道すがら、鬼女さんは様々な話をしてくれた。
――こうやって生きていても、何も楽しくないです。死にたい、とは思わないけれど、自然に死が歩み寄ってくるような気配も感じられない。これって、恐いものなんですよ。
――人の道を外れた『人』は、鬼です。なら私も鬼でいいと思いませんか? 昔っから、中心にいるのは男なんです。女だったから。たまたま私が女だったから、鬼女なんて呼ばれる。男だったらどうなってたんでしょうね。
――内臓は、特に保存が難しいんです。でも、美味しいですよ。みなさんも毎日お肉食べたりするのに、どうして人は食べないのでしょう? 小さい頃から疑問だったんです。お腹が減ったら、食べればいいのに。ふくらはぎの部分と、背骨の、丁度首回りのちょっと出っ張ってる部分の僅かなお肉。それが一番おすすめです。量が少ないし取るのが難しいので、匙でかき集めるようにして取ると良いですよ。
――これから一番厳しい季節になります。そういう日の為に普段からコツコツと保存してきていたのですが……今年はあまり量が確保できなくて。だから今回の取材を受けたんです。
――山道で私を追いかけている時、トゲのある草が生えた道を通りませんでしたか?
色々な手段を使わないと、食料は確保できません。毎年色々な場所に、少しずつ、植えているんです。
――そろそろです。
鬼女さんの家が見えてきた時、取材班のほぼ全員が謎の倦怠感と頭痛に苦しめられていた。
トゲのある草。
食糧の確保。
その為に受けた取材。
やはり。
――夜。だと思う。
鬼女さんはせっせと取材班の、私の部下の、首を落とし、手足を切り、血を鍋に絞り、腹を裂き、腸を洗い、心臓を丁寧に布でくるみ、眼球をえぐり、舌を抜き、鼻を削ぎ落し、足の裏に切り込みを入れ、丁寧に皮を剥ぎ――私に気づき、にっこりと笑い――。
「いただきます」
と、やはりペロっと舌を出して可愛く言った。
でも。
鬼女に騙される危険性も重々承知した上での取材だった。
長野県警に頼み込み、馬鹿な取材だと罵られはしたが、三名の警官にこの鬼女の家を監視させる約束もした。
部下が殺されている。警官は何をしているのか。
鬼女が大きな包丁を持って近づいてくる。体が動かない。目だけ動かし室内を探る。何か――何かないのか。
その時、部屋の隅に首と腕を天井に括られた三体の遺体を見つけた。その遺体は三体とも警官と思われる制服を着ていたから――。
私は「助けて」と言った。
「ダメですよぅ。甘くない、逃がさない、助からない。お蔭で私は鬼女なんですから。鬼女のお話の結末は大体知っていたでしょうに」
やはりにっこりと笑って言った鬼女は、どこか愛嬌があった。
それでも。
鬼女が包丁に力を込めて振りかざした瞬間、私はそこに鬼を見た。