妖怪うぃき的妖怪図鑑

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妖怪絵師紹介・佐脇嵩之(さわきすうし)

佐脇嵩之(さわきすうし) 1707年~1772年

 

佐脇嵩之は、英一蝶(はなぶさいっちょう)に絵を学んだ江戸時代の画家であり、江戸生まれの絵師。

当ブログで紹介している『百怪図巻』を描いた人物である。

しかし『百怪図巻』は佐脇嵩之のオリジナルではなく、狩野元信の描いたものの写本の、さらに模写したものだと云われている。

オリジナルでは無いものの、佐脇嵩之の素敵絵描きスキルにより、似たような妖怪を描いた画集の中でも一際質の高いものとして評価されている。

 

佐脇嵩之に関する資料があまり見つからなかった為、少し逸れるが師匠である英一蝶の逸話がちょっと面白いので少し書いてみる。

 

英一蝶は絵描きとして食いつなぐ傍ら、様々な人物と交流を持っていた。その中には松尾芭蕉などもおり、俳諧を好んでいたことも解る。

また、一蝶は遊郭好きでもあり、よく足を伸ばした。しかし驚くのが、ただ遊女と遊ぶだけでなく、遊郭内の職業であった所謂「太鼓持ち」のようなこともしていたということ(太鼓持ちとは、要は客を盛り上げたり、遊女と客との仲を上手く取り繋いだりする役割の職業のこと)。しかもそれが凄く巧かったらしい。

 

絵を描く傍ら遊郭へ通う――ここまでは実に華やかで羨ましい生活のように思える。

しかしある日、かの意味不明条例ランキング1位に来るであろう、徳川綱吉の「生類憐みの令」によって三宅島へ流罪となってしまう。

そのきっかけになったのは幕府風刺画を描いたからだとか、諸説あるのだが、実際に言い渡された罪は「釣りをしたから」だったらしい。

もう一度書く。

「釣りをしたから、流罪になった」のだ。

なんと恐ろしい法か。

「うっそーまじー? ちょーうけるー」

などと言ってられない。なんと一蝶は12年の間江戸に戻ることが出来なかったのだ。

涙ぐましいのは、流された先で僅かに許される仕送りにも、一蝶は画材を要求したということ。それで世話になった人や、江戸で待つ家族の為に絵を描き続けたというのだ。泣ける……。

そうして耐えること12年。徳川綱吉の死去により放免となった一蝶は江戸に戻り、また絵を描き続けるのである(しかも遊郭でのお仕事も同時にこなす奇才っぷり)。

 

かっこいい!

 

そんな英一蝶に学んだ佐脇嵩之の『百怪図巻』、どうかご覧あれ。

 

関連:『百怪図巻』とは? 『百怪図巻』妖怪一覧