文車妖妃(ふぐるまようひ)
『百器徒然袋』より「文車妖妃」
歌に、古しへの文見し人のたまなれやおもへばあかぬ白魚となりけり
かしこき聖のふみに心をとめしさへかくのごとし
ましてや執着のおもひをこめし千束の玉章には、かゝるあやしきかたちをもあらはしぬべしと、夢の中におもひぬ
文車妖妃は、文車(ふぐるま)という、本を載せて運搬する為の道具より沸いて出た妖怪である。
石燕は解説文にて、「古の偉い人が書いた本からは何か出てきたりする。そう考えたら文車みたいなものからこういう妖怪が沸いて出たって仕方ないよね――なんて想像してたんだ」と書いている。
つまり文車妖妃は、様々な本を集めて運搬する文車に載った書籍達に篭った様々な怨念が妖怪化したものだと思われる。
また、塵塚怪王同様、これも『百器徒然袋』の徒然草パロディの流れを汲んでおり、徒然草にある「多くて見苦しからぬは、文車の文、塵塚の塵」という一文より石燕が創作した妖怪だと云われている。
因みに、引用元の徒然草第七二段は以下の通り↓
「賎しげなるもの、居たるあたりに調度の多き、硯に筆の多き、持仏堂に仏の多き、前栽に石、草木の多き、家のうちに子孫の多き、人にあひて詞の多き、願文に作善多く書き載せたる。多くて見苦しからぬは、文車の文、塵塚の塵」
つまり簡単にまとめれば、無駄にモノや言葉が多いのはほとんどの場合見苦しい。多くても見苦しくないのは、文車に積まれた本と、塵塚の塵ぐらいだろ――ということである。
徒然草は単なる読み物以上に、人生の教訓と成り得る面白い事が結構書いてあるので、興味があったら読んでみることをすすめる。ただし、現代語訳されているものでないと教養がない限り意味不なので注意。